カーチス・ルメイ(アメリカ軍) 日本本土に焼夷弾の雨を降らせ、... - Koichi Shimamura | Facebook より引用します。
日本政府はルメイに対し、「航空自衛隊の創設に貢献した」という理由で、勲一等を授けています。(下の画像)
カーチス・ルメイ(アメリカ軍)日本本土に焼夷弾の雨を降らせ、100万人を焼き殺した張本人。
第二次大戦中のヨーロッパ戦線。
米軍爆撃隊の兵士達は、対空砲火の精密さや迎撃戦闘機の高性能ぶりなど、
ドイツの防空能力の高さに恐れを抱いていました。
そして、「整備不良」の爆撃機が次々出る始末。
みんなテキトーな事言って、戦場に行きたがらなかったのです。
見かねた上官、自らも戦闘機に乗り込み、爆撃に出撃します。
そして、爆撃隊の後ろにピッタリと張り付き、上官は言いました。
「逃げる奴は撃ち落す。私に殺されるか、ドイツ人を殺すか、さあ選べ」
その鬼畜な上官が、後に少将となるカーチス・ルメイでした。
ルメイはその後、太平洋戦線に転属となります。
着任早々、ルメイは「軍事施設への精密爆撃では手緩い。無差別爆撃だ」と言い出します。
そして、日本の都市部への低高度からの無差別絨毯爆撃を立案しました。
当然、部下達は反対しました。
高高度爆撃に特化した新型爆撃機、B-29が配備されたばかりだったからです。
B-29を使って低高度爆撃を敢行するということは、狙撃銃で突撃して格闘するようなものです。
普通はそんな事しない。
でもルメイは聞く耳を持ちませんでした。
低高度からの絨毯爆撃によって確実に日本人を虐殺し、日本の戦意を減退させるのが、
もっとも合理的と考えたのです。
ルメイは更に、日本本土爆撃のために、焼夷弾を新たに開発させました。
関東大震災の際の日本家屋の燃え方を検証し、最も燃える爆弾を作りました。
本土爆撃が始まります。燃料は行って帰って来れるだけの最小限、焼夷弾は最大積載、当時の最新技術が詰め込まれたリモコン制御の銃座を外し、その分焼夷弾を積み、より多くの人間を殺せるように夜間爆撃に絞りました。
1945年3月10日。首都・東京への大爆撃が敢行されます。低空で首都上空に侵入したB-29約300機は、まず、集中爆撃箇所の周囲四方6キロを爆撃、人々の退路を断った後、その中に焼夷弾をひたすら投下しました。。
かくして、大爆撃は一晩で10万人を殺戮し3月10日に行われた空襲一日だけで東京の4割が壊滅し、26万戸が焼け百万人が家を失った
その後4月と5月に2度の空襲が行われたが、これによって完全に焦土と化した東京は、もはや魅力のある目標ではなくなり戦略目標からはずされた。
この死のじゅうたん爆撃は、それを皮切りに日本のすべての都市に向けられていく。名古屋、大阪、神戸などが時期を同じくして壊滅していった。
ですが、大火災による火災旋風に(低高度爆撃ゆえに)巻き込まれたり、対空砲火で撃墜されたりなど、米軍側の被害も甚大なものでした。
部下や戦友を失った兵士達はルメイに詰め寄ります。「低高度爆撃のせいで多くの仲間が死んだ!」と。でも、ルメイは冷静に言います。
「何と言われようが、低高度爆撃は有効だ。昨晩は何万人も殺せただろう。作戦は成功だ。日本の都市を全て燃やし尽くす」
その後も、日本の主要都市に対する大規模爆撃は続きました。
やっとそれが落ち着いたのは、基地にある爆弾の在庫が底をついた時でした。
でもルメイは「まだ日本は灰になっていない。もっと爆弾をくれ」と要請し続けたそうです。
非戦闘員の虐殺は立派な国際法違反ですが、ルメイは「日本人はみんな戦闘員だからいいんだよ!」という強引な論理で、それを捻じ伏せています。
その後ルメイはベトナム戦争の際の北爆を指揮します。「ベトナムを石器時代に戻してやる」と高笑いしていたという
日本はルメイに対し、「航空自衛隊の創設に貢献した」という理由で、
勲一等を授けています。
昭和天皇が日本に米軍駐留を望んでいた理由とは(一つの説にすぎませんが。)
裕仁が当時一番恐れていたことは,こういうことであった。「共産主義による革命で天皇制が脅かされることをなによりも恐れた天皇は,アメリカ軍の駐留が必要であることを誰より痛感していた。もとより,天皇にとって自らの命より,天皇制存続こそが最重要」であった。http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1060630860.html?p=3
写真は,敗戦後の地方巡幸で1949年5月29日,福岡県大牟田市の三井三池炭鉱三川坑の切り羽を訪れた昭和天皇。アメリカ人が彼に向けたカメラに対して笑顔を作った裕仁の表情である。(この笑顔の意味とは?)http://c.nishinippon.co.jp/photolibrary/cat662/cat2/
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