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ウクライナ・オン・ファイヤー「クーデターで誕生したネオナチ政権」

2月20日現在、ロシア系住民が多く住むウクライナ東部のドンバス(Donbass)で緊張が高まっています。


現状としてロシアに対するウクライナの挑発が始まっています。ゼレンスキー大統領は「ウクライナは外交で平和構築を目指す」と言ってますが、ウクライナ治安部隊による本格的なドンバス攻撃作戦を計画しているという情報があります。


ドンバスに住んでいるロシア系住民が危険にさらされるということです。もしも攻撃されたらロシアは黙っていません。その場合ロシア軍がウクライナに軍事介入することは間違いないでしょう。


米国はそれを狙っているような気がします。



本当の戦争にならないことを願うばかりです。




今回はウクライナの近代史と2014年ウクライナで起きたカラー革命の実態を描いたドキュメンタリー映画を紹介したいと思います。


オリバーストーン監督出演の「ウクライナ・オン・ファイヤー」です。


こちらは予告編です。⇩  本篇日本語字幕付きは下の方に添付してあります。



Ukraine on Fire | Trailer | Documentary | Oliver Stone | Maidan, Crimea, Putin, U.S. interference





先ず、映画の紹介の前にウクライナの ネオナチズム(Neo-Nazi)について簡単に説明致します。



ウクライナは第二次世界大戦中ナチスドイツを受け入れていた時代がありました。ウクライナはその影響を受けており、当時の過激な排他的民族主義は極右民族主義者によって世代から世代へと引き継がれています。近年ウクライナで起きた抗議行動(カラー革命)は、ネオ(新)ナチ民族主義者が深く関わっていました。


2014年、キエフのマイダン(独立広場)で、親ロシア派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領を追放するための抗議デモはその一例です。



デモ隊と警察官の双方に多くの犠牲者を出し、混乱を極めたユーロマイダン独立広場2014年




約2ヶ月半に及んだデモ隊による抗議行動はあまりにも激しく、ネオナチの武装部隊もデモに入り込んで騒ぎを起こしていました。その場は混乱を極めました。



Molotov Cocktails Vs Water Cannon In Deadly Kiev Protests



驚くべきことは、周囲の建物に武装したスナイパーが潜んでいて、混乱しているデモの最中に、デモ隊や警察官を無差別に射殺していました。この大混乱が起きた2月20日の犠牲者は約70名です。デモを起こしている黒幕の目的は、敵味方は関係なく大混乱を引き起こすことです。これがカラー革命の実態です。



反政府勢力は、木曜日、キエフのホテルで狙撃位置について、警察とデモ隊に向けて射撃していた。(動画の説明欄より)⇩




一方ウクライナの治安部隊が抗議者に発砲していたという情報もあります。
同時に警察官も射殺されていたそうです。この暴動で暴徒によって多くの警察官が連行されたそうです。67人の警察官が未だに行方不明となっており、真相は不明のままです。





この暴動について、西側メディアはヤヌコーヴィチ政権とロシアを加害者として描いています。しかし、本当にそうだったのでしょうか?


ウクライナは、2004年のオレンジ革命、2014年の反乱、そして民主的に選ばれたヤヌコーヴィチ政権の転覆につながりました。その後に発足された新政権は、ネオナチ極右翼政党メンバーで構成されています。


奇しくもネオナチ政権がウクライナで誕生したのです。



この悲劇を西側メディアは民主主義の革命として大きく取り上げましたが、実際にはネオナチ極右民族主義者と米国務省によって脚本・演出されたクーデターであったことが知られています。


この様なカラー革命は世界中至るところで起こされています。


それは如何にして起こされて来たのでしょうか?


そのテクニック(手法)をドキュメンタリー映画ウクライナ・オン・ファイヤーで分かりやすく描いています。



この作品は、正しい情報を伝えているのではないかと思いましたので、全て翻訳してみました。


本篇はこちらです。日本語字幕付きです。





ウクライナ・オン・ファイヤー 字幕を更新しました。最終アップデートです。



冒頭の近代史だけでもわかりやすく解説した方が良いのではないかと思いましたので、画像を添付してその部分を紹介したいと思います。⇩






ウクライナ・オン・ファイヤー


初公開:2016年6月16日 監督:Igor Lopatonok プロデューサー :オリバー・ストーン





ウクライナ



それは、歴史ある誇り高き国


豊かな歴史を持ち、美しさを誇ります。




英雄を崇拝し、 多くの犠牲を払ってきました。




これが、ウクライナの国旗です。




青は、空を表しています。黄金は、果てしなく続く麦畑です。




ウクライナは、東と西が出会う 国境の地です。


そして、多くの人が栄誉を求めて、 ウクライナを目指しました。


そのために多くの血が流されました。


ウクライナは、西側諸国が東側を 征服しようとしたときの通り道です。




第一次世界大戦、そして第二次世界大戦で、ウクライナの人々はこの壮大なパワーゲームにより 最大の代償を払うことになったのです。



「歴史は同じように繰り返さないが、 韻(いん)を踏む」作家マーク・トウェイン




ウクライナの歴史をよく見ると、 多くの韻を踏んでいることに気が付きます。


より強力な力に囲まれているウクライナは、 生き残るために多くの狡猾さを必要としてきました。彼らが本当に時間をかけて習得した技は、 変化する芸術です。


17世紀半ば、ウクライナの指導者 ボグダン・フメルニツキーはポーランドとの 停戦協定を破棄し、より強力なロシアを味方にしました。




ちょうど50年後、 ロシアとスウェーデンの戦争が激化する中、ウクライナの指導者イワン・マゼパは ロシアとの同盟を破棄し、侵略者のスウェーデンに鞍替えしました。




ウクライナの歴史は、 何度も第三者によって描かれました。




ロシアは、革命の成果を何としても維持しようとして、1918年のブレスト・リトフスク条約で 屈辱的な条件に同意し、ウクライナをドイツの保護領にしたのです。




ウクライナの運命を変えたもう一つの歴史的出来事は、1939年のモロトフ・リッベントロップ協定です。ヨーロッパ諸国と台頭するドイツとの間で 結ばれた多くの協定のうちの一つです。




ナチスの脅威から国を守ろうとして、ヨシフ・スターリンは アドルフ・ヒトラーと不可侵条約を締結しました。




ソ連とドイツの外相モロトフとリッベントロップは 互いに平和を約束しながら、東ヨーロッパの地図を再編成し、 ドイツとソ連の勢力圏に分割したのです。




モロトフ・リッベントロップ条約が 調印されるやいなや、ポーランドは分裂してしまいました。




そして1939年9月、ポーランド東部は ウクライナの西部となり、ソビエト共和国とソビエト連邦の一員となりました。




しかし、この大胆な国土と国家の分割も、 避けられない事態を遅らせただけでした。


ドイツはソ連との約束を破りました。




1941年6月22日、ドイツはソ連に侵攻し、世界史上最大の軍事作戦である 「バルバロッサ」を開始しました。




「バルバロッサ」は、ペテルブルグ、 モスクワ、そしてウクライナのキエフ、重要な3つの目的地侵攻を目指していました。




ウクライナは、豊かな土地と資源を持ち、 ソ連にとって重要な産業経済の源泉です。


ソ連から切り離すことは、まさに大打撃となります。




ソ連に含まれるほぼすべての国にとって、 第二次世界大戦は、自分たちの土地に侵略してきた相手と、 戦うためのものだったのですが、ウクライナにとって、 そう単純な話ではありません。


実は、ウクライナは 一度も統一されたことがない国です。




第二次世界大戦が勃発すると、ウクライナ西部の住民は、ソ連の支配により、強いられてきたので、 ドイツ兵を解放者として迎え、公然とドイツ軍に協力していました。




戦後長い間、その協力の実態は 発表されていませんでしたが、現在では、SSガリシア師団、ナハチガル大隊、ローランド大隊など、師団や大隊全体がウクライナ人の協力によって、 編成されていたことが分かっています。




戦争が始まったばかりの頃、 ガリシーノ地方から8万人以上の人々が、1か月半でSSガリシア師団に 自発的に入隊しました。




これらの軍事グループのメンバーのほとんどがウクライナ民族主義者組織(OUN)の出身です。




ウクライナの領土で、ポーランド人とユダヤ人、そして、ロシア人に対する、 彼らの極端な残酷さは有名です。


1929年に設立されたこの組織は、純粋に独立した民族的ウクライナとして 作ることを究極の目的としており、そのためのテロ行為は、目的を達成するための許容範囲内の手段であると考えられていました。




彼らのオブジェは「黒と赤」大地と血です。




OUNが消滅した後もこの民族主義は、 ウクライナの歴史に長く残ることになりました。




1940年初頭、ウクライナ民族主義者組織の 最も過激な民族主義者らは、「ステパン・バンデラ」を指導者として選びました。




1934年にバンデラや他の機構の指導者達はポーランド内務大臣の暗殺の嫌疑で逮捕され、彼は1938年に釈放されました。


特に反ユダヤ主義的で反共産主義者であった彼は、 1941年にウクライナの独立を宣言しました。




バンデラは表舞台に登場しなくても、 彼のイデオロギーを広めることに成功していました。




多くの独立系歴史家は、OUNの民兵が、1941年末まで ドイツ軍が占領していたウクライナ領で、15万から20万人のユダヤ人を 虐殺していたと推定しています。




悪名高い非道な虐殺は、1941年9月29日と30日に キエフのバビ・ヤールで行われました。




「キエフ市とその近郊のすべてのユダヤ人は、9月29日月曜日の朝8時までに 出頭しなければならない。書類、金品、貴重品、また暖かい衣類、毛布、 その他を持参すること。」




命令に従わなかったユダヤ人は射殺されました。


ナチスとウクライナ民兵によるこの2日間の作戦で 33,771人のユダヤ人が殺されました。




ウクライナの反乱軍が行った、 もうひとつの非道な行為として、ウクライナ民族主義組織バンデラ派は、ドイツ占領下のポーランドのヴォリンと 東ガリシアで大虐殺を行いました。




このポーランド人の虐殺は、 ミコラ・レベドが主導しました。




ヴォリンでは35,000から60,000人が殺害され、東ガリシアでは、25,000から40,000人が 殺害されました。


このように大規模な民族浄化作戦が 行われたのです。


ドイツ軍の敗北が避けられないと判断した ウクライナ民族主義者組織は、かつての同盟国に見切りを付けドイツ軍とソ連軍に 対等に戦いを挑むようになりました。




1943年1月、ソ連軍はナチスに反撃を開始して、 ウクライナの各地を次々と解放しました。




西ウクライナはドイツ軍が最後に支配した地域で、1944年10月にようやく解放されました。




バンデラたちはソ連に対抗してゲリラ戦を続け、ウクライナの村や町に血なまぐさい襲撃を加え、 混乱と犠牲を生んだのです。




このゲリラ戦は1950年半ばまで続き、最終的にバンデラの協力者は拘束されたり国外に逃亡しました。


1945年5月7日ドイツは連合国に無条件降伏し、 ウクライナはソビエト連邦の一部となりました。




第二次世界大戦後の平和も束の間でした。




ナチスを倒すために イギリスと同盟を結んだアメリカとソ連は、その後に起きた敵対関係により、 冷戦が始まりました。





米ソの政治的・軍事的緊張の時代は45年近く続き、 人類は常に核戦争の脅威にさらされ続けました。




この戦いの中でも、米国はウクライナの重要性を見失うことはありませんでした。




アメリカの諜報機関は、 ソ連に対する防諜活動として、ウクライナの民族主義組織を注意深く見守っていました。



つい最近、機密解除されたCIAの文書では、




1946年以来、米国情報機関とウクライナの民族主義者の強い結び付きがあり、CIAの報告書で、ウクライナの民族主義組織の指導者は、ステパン・バンデラ自身で間違いないことが明らかになりました。




1945年9月のOSS(CIAの前身)の報告書によると、 バンデラは、第二次世界大戦中、恐怖政治を展開していたことで 指導者として高い評価を得ていました。




第二次世界大戦後、 バンデラとウクライナのナチス指導者たちは、ヨーロッパに逃れ、CIAが彼らをかくまったのです。




CIAは後に、ステパン・バンデラや 他のウクライナ人を隠していたことを移民帰化局(INS)に報告していました。




ウクライナ人を使ったこの作戦はソ連に 知られることなく、何年も続けられました。




1945年と1946年のニュルンベルク裁判は、ファシスト・ドイツの 政治、経済、軍事の指導者を裁き、ナチズムという怪物の姿と 彼らが犯した犯罪を明らかにしました。




しかし、ウクライナのナチスは同じ運命を免れ、中にはCIAから免罪符を与えられた者さえいました。




1954年までに、当局は冷戦の必要性の名の下に、OUN(ウクライナ民族主義組織)治安部隊の 犯罪行為を免除しました。




バンデラがアメリカに利用されなくなったのか、それともKGBのエージェントが CIAを出し抜いたのか、定かでありませんが、1959年、ウクライナ民族主義者のリーダー ステパン・バンデラは、ステパン・ポペルの名で潜伏していたところ ミュンヘンで暗殺されたました。


バンデラがウクライナ・ナショナリズムの主要な シンボルになったのは、まったくの偶然です。




彼が唯一の指導者でもなければ、最も強力な指導者 ではなかったと言ってよいでしょう。




バンデラの危険な思想は、 共産主義当局によって弾圧されながらも、外部勢力によって支持され、本当の意味で 消えることはありませんでした。




ウクライナのナショナリズムの種は 世代から世代へと受け継がれました。




しかし、残念ながら再び同じことが 起こるのは時間の問題でした。






お読みくださりありがとうございました。ここまでが冒頭15分までです。



続きはこちらをご覧ください。







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